「坊っちゃん」(夏目漱石)

行間から漱石の慟哭が聞こえる

「坊っちゃん」(夏目漱石)新潮文庫

東京物理学校を
卒業したばかりの「おれ」は、
四国松山の旧制中学の教壇に立つ。
子どもの頃から無鉄砲で
直情型の「おれ」は、
手の焼ける生徒たち、
臆病で無気力な同僚、
ろくでもない教頭との
葛藤を繰り返す。
反撥を重ねた末に…。

本書もまた、読むたびに味わい深く、
読むたびに別の顔を見せてくれる
作品です。
中学生のときに読んでから、
これまで何度再読したことか。

若い時分に読んだときには、
本書を勧善懲悪痛快青春小説と
捉えていました。
よどみのない
流麗な日本語による文体と
ゆるぎのない
確固とした信念を感じさせる文章。
その中で浮かび上がる
坊っちゃんの清冽な人物像。
明るく爽やか、正義感溢れる好青年が
描かれていると感じていました。

しかし、50歳を超えた今読むと、
そうした明るい雰囲気の文章の行間から、
漱石の慟哭が
聞こえてくるような気がするのです。

巻末の解説にあるように、
坊っちゃんと山嵐コンビは
赤シャツ野だ組に
勝利したわけではないのです。
敗北です。
なぜなら自分たちは職を失うのに対し、
赤シャツ野だは
これまでの地位に居座り続けるのです。
そして、うらなり氏の九州転勤、
およびマドンナとの問題は
何ひとつ解決していないのですから。
なにをどう見ても
坊っちゃん側の完敗です。
では坊っちゃんは何に負けたのか?

坊っちゃんは父親の死にともない、
家屋敷を処分した兄から
幾分かの分与金をもらい、
遠い四国へと流れていきました。
これは紛れもなく、
家を中心とした血縁関係からなる
封建的繋がりが崩壊し、
自立した個と個の関係による
近代的繋がりを目指したことに
ほかなりません。
しかし坊っちゃんは新天地で
近代的人間関係をつくることに
失敗したのです。

そして、
言葉による議論と策略によって
自己の欲求を満たした
赤シャツの行動が
近代人的であるのに対し、
坊っちゃん側の採った戦略は
封建人的な暴力。
ここにも坊っちゃんの
近代人たり得なかった人間の姿が
炙り出されています。

坊っちゃんは
近代人になるべく松山へと向かい、
近代人になりえなかった者として
松山を去ったのです。

封建的なものと
近代的なものとがせめぎ合う中で、
己の孤独と向き合わざるを得なかった
明治の知識人としての
漱石の悲しみと苦しみが
見え隠れしてなりません。
そう考えると、本作品の立ち位置は、
その後に続く
「それから」「門」「こころ」などの、
悲劇の予告のようにも思えます。

日本文学の頂点として
今も輝き続ける名作。
人生の早い段階で出会い、
長くつきあうべき一冊として
取り上げます。

※眼がしんどくなり、
 大きい活字の
 最新版に買い換えました。

(2018.10.2)

【青空文庫】
「坊っちゃん」(夏目漱石)

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